ゆきつくところ

 季節を忘れぬ植物の営みはこの暑すぎる秋にも続いていました。
 お彼岸にはどこからともなくちらほらとあかい彩りが見えたかと思うと、あっという間に束になったかのような茎が伸び、するとそこが一面彼岸花の赤に変わります。それに続いて、つい数日前までそこかしこに甘い香りを漂わせていた金木犀の出番。毎年、金木犀が薫るのを感じると、ふと時が止まったかのよう。その金木犀もおとといの台風の襲来で一気に散り去り、この先の楽しみは、次第次第に色づく樹木の紅葉でしょうか。

 今日あたり十三夜だそう。お月見の花といえば、すすきですね。以前、もうかなり前ですが、秋の草月展にすすきを素材にした作品を出しました。すすきといえばお月見で月の光の中で眺めるのが定番ですが、展覧会に向けて花材を考えながら過ごしている夏の終わり、すすきではありませんでしたが、野の草が一面に穂を出して、初秋の緩やかな光と風の中に身を委ねている風景と出会いました。穂が風に吹かれながら光を受けた姿、それを展覧会場で写しだせないか。ためしだめしの末、細めのワイヤーの網にすすきを柄からほどいてばらばらにしたものを吹き付けたようなものが最終的な作品のかたちになりました。草月3代目家元宏先生のころのことです。秋の草月展は、作品が完成した夜、家元が出品作品を見て回られます。そのすすきの作品の年、家元のアテンドをしていたスタッフの方から『いいね。なぜ、金網を使ったかな、光がほしかったのだろうか。』とコメントされていたと後日教えていただきました。さすが。

 就寝前の気分転換、このところ読みあぐねていた本を部屋のあちらこちらから探し出して読み始めました。そこで思いがけず先代宏先生と再会(したかのような)。赤瀬川原平さんが書かれた『千利休 無言の前衛』岩波新書。赤瀬川さんは宏先生が監督した映画『利休』(原作:野上彌生子『秀吉と利休』)の脚本を書かれています。宏先生が赤瀬川さんを抜擢された経緯、打ち合わせのようす。創造と沈黙、という利休の姿が勅使河原宏という先代家元の内面と重なります。
 現在の草月流家元、茜先生には“おしのび”ということで3331での展を訪れていただき(それは震災後の特別な状況下での復興支援企画ということを汲んで、の意味であったでしょう)、また顔を合わせればそのたび、なんとも言えない暖かいものをいただいています。いまはまだそのひとつひとつをここに書き留めたりせずに自分の胸のなかに大事にとっておこうと思います。こうして、当然私ばかりでない、大勢の会員のひとりひとりとの向き合うこと、その立場、おつとめの大きさ、いかばかりでしょうか。

と、すっかり話題が花と草月流の話になりました。

ほんとうは、台風に襲われた伊豆大島のニュースに思われた所感を書いておこうかと思い立ったのでした。
長くなりましたので、それはまた次回、『ゆきつくところ―その2』としてあらためようと思います。