理想と現実

ふたたびゆとりのない日々を送っておりました。時間もそうですが、問題は気持ち。いけばなの活動に対する私の理想―それなりにこだわりがあります(これまで書いているものを読んで下さった方からは、いまさら書かなくても知っていますと言われそうです)。「理想と現実」。理想をとるのか、現実をとるのか、いろんな場面で考えます。いけばなの活動だけはできるだけ自分の理想に近いスタイルを保ちたい…、そんな思いを貫いてきました。元手の資金があってはじめたことではありませんから、そのときどき、自分のいけばなの活動を守るために自分にできることを探しながらやってきました。というわけで、毎年少しずついろいろな変化のなかにいます。今年もまた予想外にゆとりを欠いた日々となり、少し体調も崩しがちになってきたので、いくらか現状の見直しにかかっています。“感受性が強い”といえば長所に聞こえますが、これもゆき過ぎれば、外部からの刺激でダメージを受けやすい、ということにも。本質を追求したいという性格や情熱もあって、以前過労の末に帯状疱疹が三叉神経に起こってしまいました。それからもう何年か経ちましたが、今現在は過労や心労が極限に達するまえに荷を降ろす、これだけは自分の内なる決め事としています。

今年の梅雨は、来たとも過ぎたとも感じさせぬままに漫然と過ぎていきました。そして7月に入ると、この先いつ止むともしれない焼けただれるような暑さの到来。やっと数日前から夕立が見られるようになりましたが、夕立もなかった半月ほどのようすは少し不気味でした。そして、その夕立ももはや過去のそれとは全く様子が異なる完全なスコール。しかも都内でのその規模や威力のすごさ、まるでふつうではありません。あきらかに人類の活動によって生じている地球上にうごめくエネルギー、それが、もうこれ以上どこにも行き場がないのだ、と伝えているかのように感じています。

そんな中できのうは2013夏の参院選。「原発の事故がこの先たったひとつでもおこったら、生きていることも生まれてきたことも多くの人にとってほんとうに苦々しく虚しいことになる。そして、人間が何かを想定するとき、無数の不確実な要素を完全にとりのぞくことは不可能で、また、どれほど優秀な知能があるとしても、自らを完全に虚しくして絶対確実な真実を見据えることは人間には決してできない。」あの震災、そして事故からもうすぐ2年半という今考えている原発に対する私自身の思いです。テレビはほとんど見なくなっています。しかし昨日は自分の一票の行く末を知ろうと各局の選挙速報を次々眺めていました。その選挙速報の特番各局どこをみても気になっていたことがいくつか。そのひとつは、「ねじれ」とか「ねじれ解消」という言葉。何年この言葉をマスコミから聞かされたでしょうか。どうしても違和感が消えません。多数決の弊害を汲み取った2院構成の議院制度に対して「ねじれ」という言葉を発する感性には、すべてが全体主義的に進みさえすればそれでいい、という言外の意図を感じます。また“少数政党や無所属の立候補者が地域の選挙民の民意を受けてたった今当選した”というその状況でキャスター級の出演者が、「少数勢力でどうやって公約を実現しますか?」と責め立てるように質問している様子もよく見ます。これ、実は考え抜いてその人に投票した選挙民を愚弄することでは? それぞれに自分の意見にもっとも近い立候補者に投票という行動を通して意見表明し、それが多数の賛同を得て当選したというその場で「当選しても少数派では何もできないでしょう。公約はどうするんですか?」と詰め寄っている…、というとこです。勝ちさえすればいい、勝ち馬に乗りさえすればいい、2000年代に入って顕著に際立った日本人のこの風潮。しかし、今回の選挙、いろんなところで、組織ではなく“自分自身で考え抜いた選挙民”の票を集めた人が当選していましたね。昨日私が視た中で、類似の視点で分析していたのは後藤謙次さんおひとりでした。

選挙は終わり、時計の針はふたたび未来へと進んでいきます。ここでやはり“理想と現実”。ひとりひとりの意見が尊重されたい、という理想と、多数決で進む道を選んで行かなければならない、という現実。次元の違う話ではありますが、理想を守り、理想に近づくのは難しい、けれど、理想のない現実や、いまとはあまりにもかけ離れた全体のうねりにのみ込まれて息することもままならなくなるようなところでは暮らしたくはない。昨日は久しぶりに自分と同じように考えている人々が大勢いることを感じることができた日でした。