やっとひと息

今年もまた、まるで書きためられなかったブログ。
各地に天災が続き、言葉を失う日々。そんな中でも、落ち着いて、ひたむきな心で花と向き合うことが、きっとめぐりめぐって被災された方のなぐさめになると信じて、花のスタジオ花圓紗維はゆっくり歩んでいます。

さらにおふたりが初めての証書申請のころとなりました。証書というカタチもさることながら、ふたりとも基本の技術がひととおり身に付き、またそれぞれに自分なりのはなの風景を描き始めています。(今日は時間が不足ですので、また後日画像を貼り付けしますね。しっかり上達していますよ。)

私自身も今年は久しぶりに小規模ながら展覧会の場に一作設えさせていただきました。草月南支部が毎年5月末頃に池袋サンシャインで催されているラン展(蘭関係の業者や蘭の愛好家の方たちのおまつりのような催しです)にひと区画参加させていただき、蘭の育成家の方たちから提供された花を作品にするという内容です。支部としては回を重ねている展ですが、私自身は初参加。どんな蘭が割り当てられるかは、当日くじ引きしてその場で決まる、ということで戦々恐々という気分もありましたが、そうした偶然のめぐりあわせで引き寄せられた花というのは、作り手(いけ手)の想像をしのぐことが多いものです。くじ引きの結果は、とても立派な白いコチョウランでした。自分の意図で選択したら真っ白なコチョウランになるだろうところ、中心部分に南国原産らしい濃いピンクが印象的な花でした。これが、背景のブルーと対比して思いがけないやさしい雰囲気に。
作品の骨格とした流木は、GWの終わり頃、西伊豆に旅し自分で拾い集めてきたもの。かなり前から行ってみたいと思っていた西伊豆は、起伏の激しい伊豆半島の鬱蒼とした森の奥に相模湾を抱く地域で、長い憧れの時間を汲み取ってくれたかのような美しく感動的な光を次々と目の前に届けてくれました。長くなってきた東京での生活。うっかりすると、その便利さの中で、つい息することを忘れていたりします。今年は少しだけ都会の外の世界に触れてきました。






そんな今年ももう終盤。やっとのことで不義理にしていたお友だちへのギフトやらお見舞いやら目処がつき、少しほっとしたところ。
明日からは、恒例の草月展(日本橋)。お仲間の先生(大先輩)から出品するので、とご連絡を頂いたので、私も拝見しに参ります。
ここ数年日程が合わず見られずじまいでしたので、最近の草月をしっかり見てこようと思います。


さて、
季節外れではありますが、画像で西伊豆で出会った風景を少し。

5月 西伊豆 


〜こんな日でした。



                             
            宿の部屋に入ると、窓の外には絵のような風景。














陽のあるうちにと出掛けた散策
 






















 















夕暮れは、周囲が淡い金平糖色につつまれて。
 







朝になると一転して、その海がグランブルーに。
    



 まだまだ使いこなせないカメラにおさめることができたのはあの旅のほんの一部。
 飽きることのないひかりのもてなしにほんの少し都会の暮らしを忘れた時間でした。










  

レッスンでの習作

こんにちは。
ゴールデンウィーク、晴れてくれて何よりです。

久しぶりに、ゆっくりパソコンの前に座る時間ができました。

昨年開設した月謝制がきっかけになり、
花圓紗維のレッスンスタイルがだんだんに定着してきました。

早くもいちばん最初に月謝制を申し込まれた方が、そろそろいけばな歴丸1年です。

これまでも、みなさんがはじめたてとは思えないようなすてきな作品をいけてくださるたびに紹介しなくては!と思うこと、たびたび。このブログの更新のゆっくりさからもお分かりの通り、私がデジタルよりもアナログなタイプのため、あれもこれも遅々として進まずにいましたが、たまたま消費税アップの10日前、やっとのことで、デジカメ購入にいたりました。

そこからが、また長い(^^;)。最近のカメラ、機能がすばらしいし、もちろんだれでも使いやすいようにいろいろと考えられているのですが、なにしろ使い手が使い手なもので。
やっと、なんとか試しに載せてみよう!と、このゴールデンウィークにもくもくと格闘しております。

まずは、一枚目。うまくいったら、このあとまた追加します。
今後も、ときおり生徒さんの習作を紹介していこうと思います。
会員のみなさま、いつもお忙しいなか、いらしていただき、ありがとうございます。
みなさんの作品、それぞれに個性が出てきてとてもすてきです。
これからもたのしく習作をしあげながら、感性と技術を磨いていきましょうね(*^^*)


いけばなを習ってみたいとお考えの方のために、花圓紗維の教室がどんな雰囲気か伝わるエピソードをひとつ。
実はまるで営業が苦手です。なので、じっくりゆっくりやっていこう、ということは決めています。一方で、人数が増えることで、花材の種類を増やしやすくなったり、花器を充実させていったりと、教室としての充実感が増していくことも確かなので、もう少し増えてくれないかと思っている、と会員の方にお聞かせしていたら 『先生、まずはデジカメですよ!』とのアドバイス(*^^*)。『それから、先生のところのいちばんの魅力は、ひとりひとりじっくり手厚く教えてくれるところでしょう! みんな、実際、どんな花を生けているのか、とか、どんなようすかとか、そういうことを知りたいんだと思うんです。』と、こんな感じで会員の方が背中を押してくださって、やっと『そうだ、がんばろう』と。今のところ少人数ですが、どの方もしっかりもので、のびのびしています。みなさん、いけばばを理解しよう、身につけようと熱心なので、自然にレッスンが手厚いものになっていく、そんな感じです。こうして書いているうちに、自分のしあわせを実感して元気になってきました。

とうとう、この小さな教室を軸に、若い時から目指してきた生き方のカタチにたどりついたかな〜。決して楽な道ではなかったけれど、妥協せずに積み重ねてきたことが、しっかりものでこころの温かい生徒さんに恵まれる、という恵みとして授けられている、そんな実感があります。
みなさん、これからもどうぞよろしく。いっしょに花のあるすてきなくらしをつくっていきましょう。

喜  苑




  

  
 












記)本ブログに掲載するいけばな作品は、おもに花のスタジオ花圓紗維のレッスンでの習作や、いけばな作家喜苑の作品および習作です。レッスンに通われているみなさまには、本ブログ掲載の許諾を得ております。
作品が著作として尊重されることをのぞんでおります。作り手以外の方による転載のご希望はメールinfo@kaensai.comにてご一報くださいませ。また無断の転載をご遠慮ください。







  

折節のこと

前回のブログからちょうど2か月ほど。ふたたびあわただしい毎日でした。

日々追われるように過ごしている最中に、この2週間にこれまでお世話になった方たちとの別れがありました。身近なひとがいつのまにか高齢という世代に入り、お怪我されたり、身体をこわされたり、ということが引きも切らずに聞こえてくる到来した高齢化社会のなかで、自分が何に対してどうふるまっていくか、思い悩むことが少なくないのは私ひとりではないでしょう。

そう簡単にひとりで生きてはいけないのが人というもの。生まれてくる、というのは、なかなかたいへんなことです。だれもがはじめは無力な幼な子として生まれ落ち、周囲の守りを得て、一歩一歩と自分の足で歩きはじめる。ひとつひとつ学んで知って、自分の人生を創っていく。

私自身の人生も、平均寿命でいくとそろそろ後半戦。(現在、歴史や社会学などが、仕事の一部になっており、いつか聞いたような気のする話を調べ直したりしていますが、)むかしの人の寿命がどのくらいだったか、という話で思い出すのが、よく映像化された「人生五十年…」という織田信長の舞の場面。実際はそれよりもずっと短かったらしいですね。50歳まで生きられたら長く生きられたほうだったそう。そういう人類史が積み重なってきたうえにある、この今の時間。日常はひたすらあわただしく気がつくと息をするのを忘れていたりするほどですが、日常を支えてくれているたくさんのこと、あらゆることに感謝していたいものです。ちなみに、関心ないかとかと思いますが、20代に無理したのが30代でたたって一度死に損なったようなからだですので、平均まではいかないかな、と。他人事のような見通ししか持ち合わせておらず、今はただ、あわただしい毎日を日々日々巡らせていくのでやっとですが、こんな暮らしでも呼吸くらいは、できるだけ、深い呼吸をしているようでありたいものです。







   

早春賦

 2か月に一度開くか開かないかのブログですが、忘れているというよりも、むしろいつも次に何を書こうかと考えています。といって構想があるというわけではなく、実際には隙間のじかんができたとき頭の中をよぎったことを思いつくままに言葉に起こしていくことが多いですね。

 前回、ブログを書く時間が取れたのが昨年の年末でしたから、やはりもう2カ月。2014年の6分の1が過ぎようとしています。日々のくらしに追われつつも、1月なかばからは東京都民として選挙動向に注目し続け、2月はオリンピック選手たちの勇姿に励まされながら、何かと気の急くことでした。

 そんな中、花圓紗維はあたらしい生徒さんを迎えました。今まさに開発途上にある教室として、数ある花の教室の中から花圓紗維を選んでいただけるのは、大きな励みです。
 今の基盤で、あとどのくらい入会者を受け入れられるのか、多くて5〜10名くらいでしょうか。実のところ試し試しという状況ですが、何よりおひとりおひとりが安心して続けていただけるように、進んでいきたいものと思っています。

 さて、今年2014年の主な教室開催曜日が先日まとまりましたので、ここでご紹介します。

2014年度は火曜・木曜が教室開催曜日になります。
(※春・夏・年末年始のいち時期を除く。)

ただし 木曜は16時以降〜20時半頃終了と時間が限られます。
火曜は昼ごろ〜20時半頃終了、となります。
ほかに、水曜・金曜の昼過ぎの時間帯も日によってレッスン可能です。
週末については、日曜日に何度か開催できる日がありそうですが、
基本的には今年度、週末はお休みとさせていただきます。
(日曜のレッスンで何か体験企画などをできないかと考えていますが、現在構想段階です。)


 2月に入ってすぐはじまった寒波による大雪の時期、たまたまですがしばらくお休みさせていただいていました。偶然なので結果論ですが、寒さが厳しく、みなさん足元の悪い中通っていただかなくてすんだことにほっとしています。


 ところで、花圓紗維でどんな花材を使っているか、ご興味をお持ちの方もいらっしゃるのでは? 少し花圓紗維で使用している花材を紹介しようと思います。

 たとえば今年に入って1回目のレッスンでは、
   ぎんめやなぎと淡いパステルピンクのチューリップ、
    あわせてホワイトレースフラワー。―お正月を過ぎて軽やかな新年の始まりに。
 
 また2月1回目は、
    残雪や雪原の間に間に顔をのぞかせる早春の常連たち、
  まだ芽が堅いままの東海桜に、暖色系ライラック色のヒアシンス、
   雪のような白さが愛らしいストック、
  そしてあざやかなさみどりいろの元気な葉の中から
     細いツルの手足をグイグイ伸ばして
         小ぶりな花とさやをつけるエンドウ、と
     待ち遠しい春への期待感を取り合わせました。

 だいたい、その折々の季節感と目の前の花、
  そしてそこにほんの少しの“花圓紗維パウダー”のようなもの(花圓紗維らしさのエッセンス)を掛け合わせて、花材を準備しています。

 今週はまた2週間ぶりのレッスン。節句にちなんで桃の予定。桃の枝はとにかく真っすぐのびていきます。子どもの純真な笑顔のようなあどけないのびやかさが魅力です。ほかの花はちょうど明日訪れる市場のようすで選びます。市場に行くと世田谷近辺のお教室の先生方かな、と思われる方々とすれ違います。市場での仕入れは朝が早くて大変ですけれど、たくさんの花のなかから、ときにはシンプルに、ときには潤沢に贅沢に、花圓紗維らしい花材の取り合わせを創りだしていきます。写真をお見せすれば一目瞭然ですよね。写真をどんどんアップするようにできればよいとは思い続けているのですが、
なかなかそうなりません(^^;) 一枚生徒さんが送ってくれたまだ芽の堅い桜のようすをアップしたいと思います。

 遅ればせながら、今年も花のスタジオ花圓紗維をよろしくお願いいたします。
 会員のみなさま、どうぞ、これからも花との出会い、自分自身を感じる時間を花圓紗維で満喫してください。
 
 喜 苑 


   









  


  

2013師走

 新しいことに取り組み続け、何かと走り続けた一年がもうすぐ終わります。なかでも花圓紗維については、今年インターネットのお習いごとサイトを運営なさっている『東京レッスン.com』さんからお話を頂いて、そちらで教室紹介に特化したページを開設しました。その際、多くの貴重なアドバイスを頂き、そのきっかけで花圓紗維として初めて月謝制を設けることになりました。

 花圓紗維でいけばなを始めようかと考えていらっしゃる方がご覧になることもあると思いますので、参考までに月謝の概要を書いておくと、月謝制のコースは初級・中級・上級の3コース、いずれも月2回が基本です。ほかに、従来通りの1回ごとの予約も可能です。いずれも花材費込みとなっています。初級が月\8,000、中級 月\10,000、上級 月\12,000、1回ごとのレッスンはこれまでと変わらず5,000円です。初級コースは草月流のカリキュラムに則って進めるレッスン。テキストを修了され、師範資格を目指される段階に入ったところで、中級となります。上級コースは、ご本人のご希望があり、潤沢な花材の準備のほか、アートシーンへの転化を想定した難易度の高いテーマ設定や、空間表現の実際などへの応用の準備、各種ディスプレーなど実践の場をお持ちのプロの方のスキルアップへの助言など、通常のいけばなをはるかに凌いだ指導を求められる場合のコースとご理解いただければよろしいかと思います。

 もともとは、いけばなを始めたいと考えていらっしゃる方が始めやすいように、ということで1回ごと、というシステムにしたのですが、実際に何年かそのスタイルで続けてみて、コンスタントに続けていくことではじめて人の内側によりしっかりと根付くものがあるかもしれないと考え始めていたところに、ページ開設にあたっての東京レッスンさんとの打ち合わせを通じて、それまで伝えきれていなかったことに私自身が気づくことができた、ということ、それが今年見えない一歩の踏み出しをもたらしてくれたと思っています。東京レッスンさんの誠意ある姿勢にはほんとうに感謝しています。おかげさまで今年3名の方が初級コースのレッスンを開始されました。

 私も含めてちょっとずつちがう経験やキャリアの持ち主が集いました。共通点は、花といけばながとても好き、ということ。それから花・植物の存在のすばらしさだけでなく、『いけばな』の空間のなかでの存在の可能性に、みなさん直観的な気付きをお持ちです。習いたいと始めてくれた方3人が3人ともその気付きを持っている、ということに私自身がとても驚いています。長く楽しく続けて、いずれ資格も目指して、それぞれの未来を豊かにするビジョンをお持ちです。そんなみなさんの意欲をしっかりと受け止め、後押しし続けたいと思っています。考えてみれば、この無名の作家の小さな教室の門を叩こう、という人たちです。そのこと自体が、名声でも、器でもなく、花圓紗維を中身で選んで頂いたということ。そのことへの感謝を初心として持ち続けていきたいものです。習いに通ってくださる方、ひとりひとりの内面に潜む真に豊かな風景をそれぞれがご自分自身で見出されていくことを願ってやみません。「本物は残りますから。」、先日近くの印章店に花圓紗維の印を作ってもらおうと訪れたところ、そんなひと言をかけていただきました。紛れもない本物をめざしてきました。ただ一瞬もそのことから目を背けたことはありません。よきこと、よきものを目指して、私もまた探し続け、歩き続けていかなければ。

 今日のクリスマス、これまでお世話になってきたみなさんが、和み、温もり、夢のきらめきの中で過ごされますように。祈りをこめて。

Merry Christmas!
                                         喜  苑         







   

ゆきつくところ

 季節を忘れぬ植物の営みはこの暑すぎる秋にも続いていました。
 お彼岸にはどこからともなくちらほらとあかい彩りが見えたかと思うと、あっという間に束になったかのような茎が伸び、するとそこが一面彼岸花の赤に変わります。それに続いて、つい数日前までそこかしこに甘い香りを漂わせていた金木犀の出番。毎年、金木犀が薫るのを感じると、ふと時が止まったかのよう。その金木犀もおとといの台風の襲来で一気に散り去り、この先の楽しみは、次第次第に色づく樹木の紅葉でしょうか。

 今日あたり十三夜だそう。お月見の花といえば、すすきですね。以前、もうかなり前ですが、秋の草月展にすすきを素材にした作品を出しました。すすきといえばお月見で月の光の中で眺めるのが定番ですが、展覧会に向けて花材を考えながら過ごしている夏の終わり、すすきではありませんでしたが、野の草が一面に穂を出して、初秋の緩やかな光と風の中に身を委ねている風景と出会いました。穂が風に吹かれながら光を受けた姿、それを展覧会場で写しだせないか。ためしだめしの末、細めのワイヤーの網にすすきを柄からほどいてばらばらにしたものを吹き付けたようなものが最終的な作品のかたちになりました。草月3代目家元宏先生のころのことです。秋の草月展は、作品が完成した夜、家元が出品作品を見て回られます。そのすすきの作品の年、家元のアテンドをしていたスタッフの方から『いいね。なぜ、金網を使ったかな、光がほしかったのだろうか。』とコメントされていたと後日教えていただきました。さすが。

 就寝前の気分転換、このところ読みあぐねていた本を部屋のあちらこちらから探し出して読み始めました。そこで思いがけず先代宏先生と再会(したかのような)。赤瀬川原平さんが書かれた『千利休 無言の前衛』岩波新書。赤瀬川さんは宏先生が監督した映画『利休』(原作:野上彌生子『秀吉と利休』)の脚本を書かれています。宏先生が赤瀬川さんを抜擢された経緯、打ち合わせのようす。創造と沈黙、という利休の姿が勅使河原宏という先代家元の内面と重なります。
 現在の草月流家元、茜先生には“おしのび”ということで3331での展を訪れていただき(それは震災後の特別な状況下での復興支援企画ということを汲んで、の意味であったでしょう)、また顔を合わせればそのたび、なんとも言えない暖かいものをいただいています。いまはまだそのひとつひとつをここに書き留めたりせずに自分の胸のなかに大事にとっておこうと思います。こうして、当然私ばかりでない、大勢の会員のひとりひとりとの向き合うこと、その立場、おつとめの大きさ、いかばかりでしょうか。

と、すっかり話題が花と草月流の話になりました。

ほんとうは、台風に襲われた伊豆大島のニュースに思われた所感を書いておこうかと思い立ったのでした。
長くなりましたので、それはまた次回、『ゆきつくところ―その2』としてあらためようと思います。
























     






      

理想と現実

ふたたびゆとりのない日々を送っておりました。時間もそうですが、問題は気持ち。いけばなの活動に対する私の理想―それなりにこだわりがあります(これまで書いているものを読んで下さった方からは、いまさら書かなくても知っていますと言われそうです)。「理想と現実」。理想をとるのか、現実をとるのか、いろんな場面で考えます。いけばなの活動だけはできるだけ自分の理想に近いスタイルを保ちたい…、そんな思いを貫いてきました。元手の資金があってはじめたことではありませんから、そのときどき、自分のいけばなの活動を守るために自分にできることを探しながらやってきました。というわけで、毎年少しずついろいろな変化のなかにいます。今年もまた予想外にゆとりを欠いた日々となり、少し体調も崩しがちになってきたので、いくらか現状の見直しにかかっています。“感受性が強い”といえば長所に聞こえますが、これもゆき過ぎれば、外部からの刺激でダメージを受けやすい、ということにも。本質を追求したいという性格や情熱もあって、以前過労の末に帯状疱疹が三叉神経に起こってしまいました。それからもう何年か経ちましたが、今現在は過労や心労が極限に達するまえに荷を降ろす、これだけは自分の内なる決め事としています。

今年の梅雨は、来たとも過ぎたとも感じさせぬままに漫然と過ぎていきました。そして7月に入ると、この先いつ止むともしれない焼けただれるような暑さの到来。やっと数日前から夕立が見られるようになりましたが、夕立もなかった半月ほどのようすは少し不気味でした。そして、その夕立ももはや過去のそれとは全く様子が異なる完全なスコール。しかも都内でのその規模や威力のすごさ、まるでふつうではありません。あきらかに人類の活動によって生じている地球上にうごめくエネルギー、それが、もうこれ以上どこにも行き場がないのだ、と伝えているかのように感じています。

そんな中できのうは2013夏の参院選。「原発の事故がこの先たったひとつでもおこったら、生きていることも生まれてきたことも多くの人にとってほんとうに苦々しく虚しいことになる。そして、人間が何かを想定するとき、無数の不確実な要素を完全にとりのぞくことは不可能で、また、どれほど優秀な知能があるとしても、自らを完全に虚しくして絶対確実な真実を見据えることは人間には決してできない。」あの震災、そして事故からもうすぐ2年半という今考えている原発に対する私自身の思いです。テレビはほとんど見なくなっています。しかし昨日は自分の一票の行く末を知ろうと各局の選挙速報を次々眺めていました。その選挙速報の特番各局どこをみても気になっていたことがいくつか。そのひとつは、「ねじれ」とか「ねじれ解消」という言葉。何年この言葉をマスコミから聞かされたでしょうか。どうしても違和感が消えません。多数決の弊害を汲み取った2院構成の議院制度に対して「ねじれ」という言葉を発する感性には、すべてが全体主義的に進みさえすればそれでいい、という言外の意図を感じます。また“少数政党や無所属の立候補者が地域の選挙民の民意を受けてたった今当選した”というその状況でキャスター級の出演者が、「少数勢力でどうやって公約を実現しますか?」と責め立てるように質問している様子もよく見ます。これ、実は考え抜いてその人に投票した選挙民を愚弄することでは? それぞれに自分の意見にもっとも近い立候補者に投票という行動を通して意見表明し、それが多数の賛同を得て当選したというその場で「当選しても少数派では何もできないでしょう。公約はどうするんですか?」と詰め寄っている…、というとこです。勝ちさえすればいい、勝ち馬に乗りさえすればいい、2000年代に入って顕著に際立った日本人のこの風潮。しかし、今回の選挙、いろんなところで、組織ではなく“自分自身で考え抜いた選挙民”の票を集めた人が当選していましたね。昨日私が視た中で、類似の視点で分析していたのは後藤謙次さんおひとりでした。

選挙は終わり、時計の針はふたたび未来へと進んでいきます。ここでやはり“理想と現実”。ひとりひとりの意見が尊重されたい、という理想と、多数決で進む道を選んで行かなければならない、という現実。次元の違う話ではありますが、理想を守り、理想に近づくのは難しい、けれど、理想のない現実や、いまとはあまりにもかけ離れた全体のうねりにのみ込まれて息することもままならなくなるようなところでは暮らしたくはない。昨日は久しぶりに自分と同じように考えている人々が大勢いることを感じることができた日でした。